掲載記録


2000 十勝の新時代V伽井丹彌展カタログ

 

  

 

 

 

 

ごあいさつ

 「十勝の新時代V 伽井丹彌展」を開催致します。本展は、現在および今後の活躍が期待される十勝ゆかりの作家に着目し、個展形式でその制作活動の現況を紹介するシリーズ展「十勝の新時代」の第3回展です。今回は帯広市在住の造形作家伽井丹彌の創作人形を紹介します。
 帯広生まれの伽井丹彌は、日本を代表する人形作家四谷シモンに短期間師事したのち積極的な作品制作を展開、また舞踊家としても活動を続けています。その作品は球状の関節構造によって人体の動きを再現した1メートルを超える大型の創作人形です。確固とした存在感や精巧な生命感を含み、従来の彫刻や工芸の枠ではとらえきれない独自の造形性を現出しています。
 今回の展覧会では1990年の『人形譚ー紅ー』から最新作まで11作品によってその表現世界を紹介します。また展覧会と併せ会期中会場内での関連事業「アート・パフォーマンス」を開催し、舞踊家としての活動の一端も紹介します。
 開催にあたり多大なご尽力をいただきました伽井丹彌氏をはじめ、ご協力下さいました関係各位に深く感謝の意を表します。

2000年8月

北海道立帯広美術館

虚ろな人形(ひとがた)・鏡としての人形(にんぎょう)
 鎌田 享

 伽井丹彌の人形を初めて見たのは今から2年前、帯広市内で開かれた個展でのことだった。ほの暗く照明を落とした広さ100?ほどの部屋の正面の壁ぞいにその作品は展示されていた。真鍮製のドールスタンドの上に直立した男女一体ずつの人形(cat.nos.4.5)だった。一方は青味がかった、そしてもう一方は赤味がかったスポットライトの光を浴び闇の中に浮かぶ二体の人形は、ある得意な存在感を放っていた。

 個展で出会った、そして今回出品される作品はいずれも高さ1メートルを超える大型の人形である。それは人間の姿態をそのままに写した裸形の全身像で、骨や筋の隆起したさまや皮膚ごしに透ける静脈の様子まで精緻に表されている。眼球はガラスを細工して作られ、髪やまつ毛は一本一本丁寧に植えられ、唇やそこから垣間見られる歯並びも精巧に作られている。また、腕や脚の随所には球状の関節構造が用いられ、人間同様にさまざまなポーズを取ることができる。
 人形といえば「リカちゃん人形」のような玩具や博多人形のような置物をまず思い浮かべる私にとって、伽井丹彌の作品が持つ大きさと迫真性は新鮮なものであった。その作品は豊かな存在感を示すとともに、一方ではどこか現実の世界から遊離した印象も備えていた。それは同じ人体くをモティーフとしたロダンの彫刻作品と比較したときにより一層あきらかになる。ロダンの作品における人間の身体は、ある一定の量と重みを備えている。ひるがえって伽井丹彌の人形においては、この量塊性や重量感が希薄なのである。現実的な重量感を意識させずに豊かな存在感を備えたその作品は、幽玄ともいえる印象を放つのである。
 「からだ」という言葉はかつて、生命を失った身体、言い換えれば死骸の意味で用いられてきた。「からだ」とは人の「殻」であり、その内側は「空」なのである。それは西洋に」おける「body」、内側を肉によって満たされ量と重さを備えた「肉体」とは異なる。伽井丹彌が形作るものは人間の外形としての「からだ」、命なき虚ろな人形(ひとがた)なのである。だからこそ彼女の人形においては身体のさまざまな外面、とりわけ人間にとってもっとも露出する機会が多くそれゆえにその人物の第一印象を決定する要因ともなる顔の造作に精緻さを極めてゆく。また球状の関節にしても、人間同様のポーズを取らせることができるとはいえ、実際に身体を動かした時に起こる骨格のゆがみや筋肉の弛み張りまでに正確に再現されるわけではない。人体の構造や動きを再現することに主眼がおかれているのではなく、人形として自在にポーズを取らせ得ることに重きがおかれているのである。
 しかし伽井丹彌の作り出す人形は、まったくの空疎な存在ではない。型から作られた人形の各部位は、幾度となく塑土が盛られ削り磨かれて次第に精緻な造形性を獲得していく。こうして形作られる人形は実際に内部が空洞なのだが、その空洞は幾重もの過程を経る中で作者の情感によって満たされていく。虚ろではあるが充実した空洞なのである。
 谷崎潤一郎はその随想『陰鬱礼賛』の中で「私は母の顔と手の外、足だけはぼんやりと覚えているが、胴体については記憶がない」と記している。そして胴体は人形の心棒のようなものであり、薄暗い日本家屋の中ほのかに浮かび上がる顔こそが女性のイメージの源泉なのだと続ける。谷崎にとっての女性は、生身の肉体を備えた現実の存在ではなく、顔や手の表情によって導き出される情感の中の存在なのである。実在よりも情動を重んじるこの嗜好は、伽井丹彌の作品制作にもそのまま当てはまる。
 伽井丹彌の人形の多くは女性像であるが、これは作者自身が女性であることと大きな関わりを持つように思われる。モデルなり資料なりを参照しながら思索の中でそのイメージを組み上げていかなければならない異性の像よりも、生身の肉体や感覚、感情を実感しながら造形化できる同性の人形のほうが、より精緻に「からだ」を作り、そしてより深く情感を吹き込むことが出来るのであろう。情感を込めていくことで、虚ろな「からだ」は作者の生の等価物へと昇華されるのである。
 人形制作と並行して、伽井丹彌は舞踊家として活動を続けている。その舞台上で彼女は、あたかも人形のように動き舞う。虚ろな「からだ」を自らの手で造形化した人形に対して、舞踊の場合は自身の生身の肉体を人形のように虚ろなものとして取り扱う。そしてどちらの場合もその「からだ」に情感を込めていく。彼女にとって情感の表出のためには肉体は不要であり、虚ろな「からだ」こそ必要なのである。人形と舞踊は彼女の中で相互に連関する表現領域なのである。
  

 個展の会場で私は、見る角度をわずかに変えることでこれらの人形がドラマティックなまでにその表情や雰囲気を変貌させることに気づき驚いた。同じ人形が、笑みを浮かべたようにも悲しみに沈んだようにも、あるいはあどけない少女のようにも取り澄ました大人の女のようにも見えたのである。
 その変貌するさまを楽しみながら、私は能面のことを思い起こした。舞手のわずかな動作や明暗の微妙な変化に応じて、能面は喜怒哀楽さまざまな表情を見せる。それは抑制された動きのうちに舞手が込めた感情、そしてそれに触発された観衆の情感を映してのことである。同じように、伽井丹彌の人形も私の動きに応じ、そして私の思い浮かべるさまざまな女性像に応じて、その表情や雰囲気を変えていく。
 伽井丹彌の人形のうちに秘められた空洞は、作者自身が吹き込んだ情感ばかりで満たされているわけではないようである。さらにそこに鑑賞者の抱いた情感をも含み込むだけの深さと広がりを持っている。この人形は作者の思いを映し、そして鑑賞者の思いを映して自在にその印象を変えていく鏡のような装置なのである。伽井丹彌の作品を前にして、私たちは作者の思いばかりを覗き見るわけではない。自らの思いをもまた、この人形に見出すのである。

(北海道立帯広美術館学芸員)



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